20210920 京大100人論文とHIシンポジウムへの参加
9月15日ー9月19日の期間は京大100人論文とヒューマンインタフェース学会主催のヒューマンインタフェースシンポジウムに参加。
www.cpier.kyoto-u.ac.jp
jp.his.gr.jp
共にオンラインでの開催で比較的自由度高く行き来できてとても助かった。Discord、oVice、miro、Zoom、Youtube Liveなど多様なツールを駆使して両者ともにとてもよい体験に仕上がっていた。
京大100人論文
「研究する文化をいかに醸し、問い続ける街をいかに作るか」というタイトルで参加。問いの背景やこれまでの取り組み、これからの展開などについて事前に投稿したものをボード化してくださり、そこに非同期型でコメントをどんどん付箋で貼り付けてくださる。頂いたコメントにお返事付箋貼ると、さらにまた別の付箋でコメントがあったり。
テーマへの共感もありつつ、問いを深めるコメントも多くいただけ、全付箋のコメントはコピっておいた。FreeTalkで少し対話して繋がりが生まれたり、コンタクトを取りたい方からも連絡をいただけ、新しい出会いもいくつかあった。テーマを基礎に仲間が増える嬉しさ。学会があってそこに入る、という感じではなくて、コミュニティの目的が徐々に生まれていく感覚に近い。
HIシンポジウム
こちらは「市民主体のシチズンサイエンスを促すソーシャルインタフェースの特徴ー福岡市市民まちづくり研究員受入事業の事例分析ー」というタイトルで発表。
市民と研究者の境界をインタフェースと捉えた発表で、社会学っぽさあるので質問やコメントいただけるのか不安だったけども、5名から10件ほど質問やコメントも頂けた。懐が広い学会だ・・・。
両者を終えて
両者ともに近い質問やコメントを多くいただけた。
「それは大学に社会人が来て研究するのとどう違うのですか?」
「アカデミックな研究と市民が行う研究との違いってどこでしょうか?」
「大学をデザインしなおすという試みなのですか?」
「自分たちの研究を問い直す場が自然と生まれるとよいですね」
などなど。それ大学と何が違うのですか?と。自然発生するのが文化では?と。
また別の記事に書こうかなと思っているけども、いま太宰府市と福岡市で市民ラボ、市民大学、私設の市民図書館を同時に作って、そこで市民研究員に研究活動に取り組んでもらうという試みを始めている(20年かそれ以上同じ場所でじっくりやらないとダメだろうなと、現在進行形で感じている)。
大学的な要素を、地域や場所性を活かしながら、大学の外にどんどん作る。
「好奇心を毀損されない社会に」という動機から始まったものの、コメントをもらって対話しているうちに、自分は行為として何をしているのかと問い直すこの5日間。
私は、大学的なものを外に出す中で、大学とは何か、研究とは何か、を考えようとしているのか。自分の原点に迫っていくような。26歳ごろに「大学か研究所を作りたいな」とぼんやり考えたあの動機の正体はなんだと。
大学という全体から、ラボを外に出す、図書館を外に出す、と部分を切り出していったときに、それでも残る大学らしさとは何か。
ラボを外に出し、図書館を外に出し、としていくうちに外側で再構成される大学的なものはどんな姿になるのか。
研究をするだけだと研究の街。その研究自体を問い直すのが学問の街だとしたときに、そのような場が生まれる価値観や行動規範は何か。
まあでも何だか根源的な問いというよりは、まだまだ今やっていることをそれらしく整理した言葉という感じもある。
宮野先生からは「どの研究分野にあたるだろうとか考えすぎて、先生が楽しくなくなったら終わりやで、これ」と。
研究し始めが農学部で、自分で装置や環境を作って試すという楽しさが原点なので、やっぱり自分で作りながらそこで生まれた状況を観察し、分析するのは性に合っている。
学生も市民の方とも、それぞれが持つ探求心から生まれたテーマが深まっていくのもいつも楽しい。行為の楽しさは失わないように。
私が作ろうとしているフィールド自体に興味を持ってコンタクトしてくださった先生もいた。
野心的な雑誌「といとうとい」にもまた出せそうな面白さが滲み出てくるよう、自分の分野を早々に規定したり、何者かのラベル化やカテゴリ化して安心したくなる気持ちを抑えてじっくり取り組まないとな。
www.cpier.kyoto-u.ac.jp